昭和五十四年一月十八日 朝の御理解


御理解第四節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる」


 昨日合楽会でございましたが、中でいろいろお話しをさせて頂いた事の中に、合楽で頂く御理解というのは、皆さんがどういうふに頂いておられるか。
 昨日、或る本を見せて頂いとりましたら「名人は、初めから最後まで感動・感じさせる。上手な人の話しは時間を感じさせない。お徳を受けた人の話しは話さないでも感じる」といったようなことを書いておられました。
皆さん、合楽の場合はどんなふうに思いますか。
名人でもなからなければ上手でもない。というて徳を頂いとるわけでもないのですけれども。ね。
そして、お話しには序論、そして本論、それから結論、というように順序立ててお話をせなければならない。というようなことが記事に載ってるんです。合楽場合は、もう本論が先かと思うと序論が先であったり、いや、結論を一番先にといったような、もういうなら、無茶苦茶なお話しですね。昨日のお話しなんかもそうだったですね。ね。ま、いろいろなお話しを取り混ぜて、しかも、十五なら十五間で、ま、ようこれだけの事が、いろいろな話しをしておって、まとまっておるのには後から頂いておどろくくらいです。
皆さん、合楽の御理解は後で一遍しようと思うてみなければ、分からんです。そして、その日の御理解の筋の中に、チャンと入ってしまうし、そして、これは三十年間聞いてきたけれども、この御理解は今日は初めてじゃった。という御理解でしょうが。だから、昨日私が申しました事でしたけれども、これは合楽の場合は、名人でも上手でも、なら、徳を持ってるわけでもないのだけれども、確かに神の叡智が、その話しのすみずみにまで、満ちあふれておる。というある。ね。
 今日はここでは、「金光大神の言うことにそむかぬように」という事をです、例えば、んなら、合楽の親先生が言う事にそむかぬように。という事だったらその神様の心が、神の叡智を持って説かれとるのですから、おかげにならん筈がないです。
 最後のところに「天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやる」とおっしゃるが、だからそういう意味あいで、親先生と言えば、おかげを授けられる。という事が分かるです。
これが私の話しならね。助かる。けれども、どげん考えても私の話しとは思わない。
 昨日のお話しでも、黒棒のお話し、ね。外の他所の信者さんが、いわゆる、修行が楽しうして、ありがとうして。という、ここの四人の兄弟のを話しを聞いて、感動して、そして御造営費・お初穂・きておる程にです。のこと。おすと、水の性と火の性の人の話しをしましたね。お取次ぎという鍋をかけて、水なら湯にする・米を入れるなら、ままになる。というような、おかげが頂ける。そういう、あちらこちらからもってきた話しで、昨日の御理解が、いうならば、形成されてるわけです。ね。そして、あ、もう本当に成程、その気で聞いたら誰でも分かるだろう。というように説いてある。ね。
 昨日も丁度、もう終わりがけでしたけども、終のバスで、福岡の伊藤さんがお参りして見えられる。朝の、いわゆる、寒修行に参加したいから。と、こう言うわけなんです。ね。それで、二、三日前の「人を軽う見な、軽う見たらおかげはない」という、あの御理解にね。人を、いわゆる、丁重に見るとか、感じるためには、まず、その人の神性を知れ。まず、自分自身が我神の子である。という自覚に立て。人もまた、神の子である。ということが、実感として分かってくるようになる。という御理解でしたでしょう。ね。
その日に、あの大和さんが頂いておられるのが、寿司やがね、寿司屋の出前の桶をもって、その中に人参をいっぱい入れて、家に持ってきたお夢を頂かれた。しかも、その人参にはかなずかいで、人と神、ち書いちゃった。ね。
その日の御理解を、も、そのままズバリに頂いてある。ね。だから本当に人が神の氏子としての自覚が出て来て、見れるごつなりゃね。寿司というのは、寿をつかさどる。と書いてあるでしょう。あんたが願ごうとる。本当に、人間の幸福の条件が足ろうてくる。それをつかさどるものは、ね、人を軽う見ちゃならん。人だけではない。物でも、一切がそうなんだけれども、そこに神性を感ずる時に、いうならば、お道具一つでもその中に、神性がこもっているんだ。と丁重にあつかう。そういう信心が出来る。ためには、なら、自分自身が神の自覚に立て。といったような、やっぱりその日の御理解を頂いておられた、その伊藤さんがお夢を頂いた。というのが、合楽教会の前に人参ち書いてある看板が出とる。ね。勿論、ひらがなでにんじん、ち書いてある。そして、卸と書いてあったち。ね。
 合楽では、だから、本当に人間が神をめざして行く人達が、も、一人二人じゃない。もう卸で、どんどん出て行こう。と。
成程、ま、合楽で今、日本一というならば、修行生が育っておる事でしょう。ね。
例えば、皆さんもそうですけれども、なら、修行生の一人一人が、今、合楽で生神をめざさなかったら、もう、合楽で修行しとる値打ちはないですもんね。出来る出来んは別として、とにかく、生神をめざす。とこういう事なんです。ね。
そのためには、いうならば、もう水の性、土の性を自分の性の中に入れてしまう行き方になる以外にはない。性根が変わらなければだめ。水の性になれ、土の性になれ。ね。ために、素直にもなれ、黙って治める辛抱力もつくれ。というのが、今の合楽で言われておる事なんです。ね。
例えば、合楽での場合はこのように、人間の智恵ではない。神の叡智としか思われない。んなら、それは、先生がその話しの伝え方が名人でもなからなければ、上手でもない。徳を受けるというわけでもないけれどもです。ね。金光大神の言う事に背かぬよう。ね。もう、そのまま金光大神の言う事に背かぬよう、親先生の言う事に背かぬように。という信心をさせて頂くならば、ね、おかげの頂けない筈はない。いわゆる、いよいよ和賀心が豊かに美しぅなっていかん筈はない。
 昨日、ある方が、とてもいい信心をなさる方ですけども、何とはなしにおかげは受けとる。けども、やっぱり、より大きく頂きたいより大きな御用をさせて頂きたい。ためには、もっとその、ましなおかげを頂きたい。と、こう言うのである。御造営も始まることだしとにかく、もう、一周り大きなおかげを頂きたい。そして、私、御心眼に頂いたのが『小さい、それは立派な紫檀の谷なんです。小さいんです。丁度、これを倍にした位な机に、も、そのお料理がいっぱい並べてあって、並びきらんから、も、下のほうにまで、こう並べてあるところ』を頂いたんです。ね。もう、その質としては最高でしょうね。応接台・飯台なら飯台としては、そういう良い信心を頂いておられるけれども、小さい。だから、大きぅなる以外にはない。という御理解でした。
私、それを伝えてからそんなら、どげんなる事が大きくなる事じゃろうか。と思うたけれども、はぁ、も、結局土の信心・水の信心になる以外にないですね。と言うて、間、帰られましたけども、その後に、私いろいろと考えさせて頂いておったら、昨日、研修の時にやっぱり、その今さっき言いました方の御本の中に、玉水の湯川先生のお話しが出てました。玉水の湯川先生がおっしゃておられる言葉の中に「信心を頂くとね、したい事がしたくなくなる。したくなかった事がしたくなる」と言っておられる。私はこれを頂いて、これはもう、絶対お徳を受けなければ、空壁には出来ない。と思うのですけれども、お徳を受けなければならない、力を受けなければならないから、その精進をしなければならない。という事です。
私共の周囲にです、嫌いな人がありゃせんか。と、嫌いなものがありゃせんか。と、ね。これは、こうしなければ、なかなかおかげを頂かれんことは分かっとるけれども、なかなか出来ん、取り組みきらん。ね。今迄、取り組みきらん。と思うておった事が、それがね自分から求めて、それに取り組むようになる。という意味じゃないでしょうか。ね。今迄、したくてたまらなかった事がしゅうごつ、なかごつなってしまう。今迄、しゅうごつなか、もうこげなこつはしゅうごつなか、と思うておった事がしゅうごつなる、と言うのです。ここ辺の言葉で言うと。
ははぁ、その方がまた、今日でも参って来たらその事を、もう一つ言わなきゃいけないな。土の心、水の心、成程そうなんですけれども、ね。心の中に、いうならば、嫌いがあり、好きがある。それが段々不思議に、いつのまにか嫌いな、いうならば、人が好きになっておる。という程しの精進。成程これが大きくなることだな。というふうに改めて、思わして頂いたんですけれども、なら、これも、私の考えから湧いたのじゃない。神様が、皆さんが、もう一周り大きくなりたい。と思うならば、もう一周り大きな御用でもさして頂きたい。と思うならば、です。ね。
したい事をしなくない。と思う程しの修行に、そういう修行に取り組まなければいけない。そして、いつのまにかもう、思うごつでんなかごつなる。というように。ね。
これは私も、ま、中途半端なことですけども、確かにそのようです。ね。もうとにかく、なら、私、いつも申しますように、色一つでも私は好き嫌いが非常にあった。赤が好きである、紫が好きである。ところが本当は、も、この頃は赤やら紫やらは、もう、あんまり好かん、好かんち言うがね、丁度いい位になっとるわけ。もう、そげんとは思うごつもない。ちいう事はないです。ね。そして、一番嫌いであった、だいだい色です。ね。柿色です。ね。もうこれは、私は見ると、も、好かんじゃった。あの色は、それがこの頃、合楽の色と言われる位に、好きになっとるから不思議なんです。
私のお手洗いに行ってごらんなさい。もう、かけてあるものがみんな、だいだい色のばっかりで、ま、私が好きだから、という意味でしょうけれどもね。そげん、も、特別に好き、ちいう事もないけれどもね。いわば、嫌いなものが好きになっとる自分に、おどろく位です。やっぱ、それだけ大きくなってるわけです。まあだありますね。したい事があったり、または、しゅうごつなかごつが、まだ、いっぱいありますから、私は今日からこの事に、いっちょ本気で私自身、取り組もうと思うとります。だから、皆さんもそういう事に取り組むという事は、金光大神の言う事に背かぬよう言う事を聞くという事になるのじゃないでしょうかね。
そして自分の周囲に、いうならば、好きなものばかりの世界を広めていく。そこにおかげは、いや、と言うても大きくなっていく。と言うのです。神様は、おかげを下さってあるんです。人間的に素晴らしいのです。ですから、それは紫檀の飯ですね。応接台ですけども小さいね。けれどもこの周囲には、沢山な人が集まって頂かなければならないのに、置かれんから神様はおかげを下さってあるのです。下さってあることは、畳の上に置いちゃる。ね。これが、充分ゆっくり置かれるような、大テ-ブルのような、おかげを頂いたらです、まだ沢山な人がそれを頂く事が出来るようになる。というようなお知らせを頂きましたがね。
 昨夜、合楽会でもその事を聞いて頂いたんですけども、合楽のお話しはね、はあ、今日の御理解ですたい。と皆さんがお知らせ頂いたり、お夢頂いたり、そすと今日、私が説かせて頂いた内容を、例えば、頂いておられるでしょう。してみると、これは、あなた、私金光大神がつながっておる。と言うより外ないでしょうが。と言う程にです、合楽の話しは、言うならば、実感を、神様の実感をもってね、伝えられるものを私共が、それを、はあ、そうどこじゃありますまい。という実感をもって頂いて帰ったら、行の上にも表わし、また、表さなければならない。
合楽の話しはいつもそういうね、お話しだ。名人でもなからなきゃ上手でもない。と言うて、徳を受けて黙って与える。という程しのものもないけれども。
御理解そのものだけは、合楽の場合はいつもフシギだな。三十年間お話しをして来とるのに、一つの御理解が、まあだ聞いた事のない角度からいつも頂く。という事だけども、これは只事じゃないな。と、こう。
これは、超名人芸だな。そりゃそうでしょう。神様ですから。ね。と皆さんが、それを本当に、そう信じて感じるところから、御理解がもっともっと、丁重にあつかわれる事になるのじゃないでしょうか。金光大神の言う事に背かぬように、それを守っていく事になるのじゃないでしょうかね。
「どうぞ」